「神風連の乱」熊本城ガイド 城彩苑スタート、城彩苑ゴール90分コース

~ 熊本城内にある歩兵営討ち入り口ほか関連碑をめぐり、
「神風連の乱」をご案内します ~

神風連は敢えて我が国古来よりの刀と槍を装備、西洋式装備の鎭臺軍に挑む。
神風連は決起の成否より、国家の危機に決起することのみに意義を持っていた。

城彩苑スタート
陸軍少尉阪谷敬一戦死之跡 碑
神風連首領 太田黒伴雄奮戦之跡 碑
神風連討入口 碑
歩兵第十三聯隊之跡 碑
明治九年神風連之変 将士奮戦之跡之碑
神風連 加屋霽堅、斉藤求三郎等戦死之跡 碑
明治九年神風黨之變 軍旗奪還之跡之碑
明治九年神風連之変 軍旗染血之跡 碑
神風連挙兵本陣跡 碑
熊本電信発祥の地 記念碑
神風連首領 太田黒伴雄終焉之地
城彩苑
◆陸軍少尉阪谷敬一戦死之跡 碑
神風連は砲兵第六大隊に討ち入る。阪谷敬一少尉は神風連第二隊(太田黒伴雄以下約70名)と交戦、散華してしまう。
◆神風連首領 太田黒伴雄奮戦之跡 碑
砲兵第六大隊の大島邦秀中佐は熊本城内の鎭臺本営に向かう途中、この辺りで神風連の古田十郎、青木暦太と対峙。大島中佐は剣術に長けていたため両名を相手に善戦するが、加勢に来た太田黒伴雄により刺殺され散華してしまう。
◆神風連討入口 碑
歩兵第13連隊歩兵営入り口があったところ。歩兵第13連隊歩兵営を襲撃した神風連第3隊(富永守國以下約70名)は、この南側入口と西側入り口から乱入、兵舎を焼き払う。
◆歩兵第十三聯隊之跡
神風連の乱時、熊本鎮台は、熊本に歩兵第13連隊と小倉に歩兵第14連隊から編成されていた。初代第13歩兵連隊長は与倉知実中佐。
◆明治九年神風連之変 将士奮戦之跡之碑
急襲を受けた歩兵第13連隊隊第4中隊の兵は営庭の大楠の下に円陣をつくって銃剣を構えた。これも忽ち神風連一党に粉砕された。
◆神風連 加屋霽堅、斉藤求三郎等戦死之跡 碑
辞世
  • あだなりと 人なとがめそ もみぢ葉の 散るこそ 赤き心なりけれ     霽 堅
  • 夷らを はらひてこそは 訪ひも 見め梅は野山に 咲き匂ふとも      求三郎
◆明治九年神風黨之變 軍旗奪還之跡之碑
歩兵第13連隊軍旗は神風連の変発生時、連隊長・与倉知実中佐の私邸に保管されていたが、神風連第1隊第三部(中垣景澄他7名)襲撃を受け、奪われる。しかし、再び鎮台兵・隈部幸作が奪還する。
◆明治九年神風連之変 軍旗染血之跡 碑
与倉連隊長は連隊長邸(京町柳川)で襲撃を受け、物音にめざめた与倉は馬丁の半被を着て家を飛び出し、あやうく難をのがれたが、連隊旗をぶんどられてしまった。再び鎮台兵・隈部幸作が奪還する。しかし、再び神風連に奪われるのを防ぐため佐武広命中尉は軍旗を腹に巻いて奮闘中に負傷、中尉の鮮血が染みたため「血染めの軍旗」と呼ばれる。
◆神風連挙兵本陣跡 碑
明治9(1876)年10月24日、太田黒伴雄ら170余名の神風連(敬神党)が廃刀令、断髪令をきっかけに明治政府による西洋化を不満として熊本鎭臺に近い藤崎八幡宮裏の愛敬正元宅において挙兵。藤崎宮に近い、愛敬正元宅を本陣とする。
◆熊本電信発祥の地 記念碑
24日深夜、熊本鎮台司令長官・陸軍少将 種田政明が殺害された際、その場にいた種田の愛妾小勝は負傷した。電信局復旧後、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」と電報を、東京日本橋に住む父・井深尚四郎に宛てに打った。
◆神風連首領 太田黒伴雄終焉之地 碑
太田黒伴雄は、歩兵営襲撃に傷つき、同志に支えられて歩兵営西門から法華坂をくだり、坂下の民家に入った。太田黒の傷は銃弾に胸を射抜かれたもので、致命傷であることが知れた。意識がうすれそうになる中で太田黒は介錯を求めるが、つきそう者たちには決断がつかない。太田黒は自分がどの方向に向いているか聞き、西面していることを知ると体を東に向けかえさせ、ふたたび介錯を促す。ようやく決意して義弟大野昇雄が首をはねた。ときに伴雄43歳。遺言は「うけひの戦いは敗れた。全員城を枕に討死せよ」とあった。
太田黒伴雄 辞世
世は寒くなり まさるなり唐衣 うつに心の急がるるかな

新風連 戦死28、自刃86、斬罪3、終身刑4、懲役刑43、放免29、逃亡して西南戦争に参加した者4、総計194名を出してこの反乱は幕を閉じることになった。一方鎮台側の死者は約60、負傷者約200名であった。

  • 所要時間 約90分
  • 少し長い時間、距離を歩きます。
    休憩しながら案内します。階段や坂道もありますので、歩きやすい履物でお越しください。
ガイドの申し込み・お問い合わせ
電話 096-356-2333
※受付時間 平日9時~17時、土日祝9時~16時