宮本武蔵ゆかりのスポットめぐりコース 城彩苑スタート、城彩苑ゴール3時間又は6時間コース

  • Aコース3時間は、霊巌洞、西の武蔵塚及び島田美術館の3箇所になります。
  • 開戦3日前2月19日大小天守閣・本丸御殿炎上す。 炎上の謎?
  • Bコース6時間は、霊巌洞から武蔵塚公園までになります。

~ 剣聖と言われる宮本武蔵は諸国遍歴の末、最後は熊本に来て熊本藩主細川忠利候に客分として迎えられ、熊本城内の千葉城址の屋敷で晩年の5年間を過ごし亡くなりました。
武蔵は霊巌洞で兵法書「五輪書」を著したほか「独行道」「兵法三十五ヶ条」をまとめ、多くの水墨画、書画のほか、彫刻などにすぐれた工芸作品を残しています。武蔵の実像と伝説、熊本での足跡をご案内します。~

城彩苑
雲巌禅寺・五百羅漢・霊巌洞(松尾)
西の武蔵塚(島崎)
島田美術館(島崎)
宮本武蔵屋敷跡、武蔵使用の井戸跡(千葉城跡)(いずれも立入不可)
泰勝寺跡・細川家四つ御廟・武蔵供養塔・歴代住職墓、引導石(立田)
武蔵塚公園(東の武蔵塚)(弓削)
城彩苑又は熊本駅
◆雲巌禅寺(入口)・仁王像 (松尾)
熊本市の西方、金峰山(きんぽうざん)山麓にある雲巌禅寺は、南北朝時代に日本に渡来した元の禅僧・東陵永興(とうりょうえいよ)が建立したと伝えられる曹洞宗の寺。九州西国三十三観音第14番霊場としても知られています。岩戸観音の歴史は寺より古く、いい伝えによれば異国から観音像を運んでいるときに舟は転覆しましたが、観音像だけは板にのって流れ着き、霊巌洞に安置されたといいます。この岩戸観音を平安期の歌人・桧垣(ひがき)も参拝しています。また、周辺は、大分県の耶馬渓になぞらえて肥後耶馬溪と呼ばれています。奇岩と紅葉の美しい場所です。その渓谷にある鼓ヶ滝は、清少納言の父で、三十六歌仙の一人に数えられる平安時代中期の歌人、清原元輔が「音に聞く鼓の滝を打ちみれば山川の鳴るにありける」という和歌を詠んだと「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」に掲載されている名勝の地であり、さらに金峰山山麓は、古来修験道の実践を行うところでもありました。雲巌禅寺 入山料200円
◆五百羅漢(岩戸観音・奥ノ院参道沿い)
雲巌禅寺から奥の院岩戸観音が鎮座する霊巌洞に至る岩山を削った斜面に、五百羅漢が安置されています。この五百羅漢は、熊本の商人・渕田屋儀平(ふちだやぎへい)が、安永8年(1779)約240年前、24年、二代にわたる歳月をかけて奉納したと言われています。武蔵が霊巌洞に籠って130年ほど後になります。座る姿も表情もすべて違うたくさんの石仏は、見ていてユーモラスでもあり、時間を忘れるほど興味深く、岩山にずらりと並んだ様は、不思議な空気に満ちています。
◆霊巌洞・岩戸観音(雲巌禅寺奥の院)
◆岩戸観音(霊巌洞内)
霊巌洞は雲巌禅寺の裏山にあり、洞窟内には岩戸観音の名で知られる観音像が安置されています。晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵が、この洞窟に1年余こもって兵法書「五輪書」を著したことは、あまりにも有名です。 *五輪書:剣の道や用兵の道、己が到達した万里一空の人生観等、その兵法いついて武蔵自身がまとめて伝書。地・水・火・風・空の五巻からなる。 霊巌洞は天然の断崖に大きく口を開いた岩窟。当時は階段も通路もなく、参籠には難所でした。洞窟内部は現在のような板敷もない岩肌で、観音坐像の前にうずくまる巨岩がひとつありました。巨岩には伝説が残されています。 “『五輪書』に曰く、《此の一流の見たて、実の心を顕す事、天道と観世音を鏡として(寛永20年《1643年》)十月十日夜寅の一点に書き初むるもの也》” 要約:“‐午前4時暁のころ、暁の洞窟に燭台を灯し、武蔵は文机に向かい、静かに筆を執って「五輪書」を書き始めた-”と五輪書に記されています。
ここを訪れる人は誰もが求道者武蔵の生き方に触れることができるでしょう。
◆西の武蔵塚(島崎)
熊本時代の弟子で、武蔵に「親睦して」「一流相伝」となったのは寺尾孫之丞勝信(次男)、寺尾求馬助信行(三男)の兄弟でした。ここは寺尾勝信一族の墓所。自然石に武蔵の別名である「玄信居士」という文字が刻まれています。但し武蔵の戒名は天道楽居士。寺尾信行の兄寺尾孫之丞は武蔵から「五輪書」の草稿を譲り受けました。弓削の「武蔵塚」には太刀だけを埋め、遺体は寺尾家の墓地に葬られたという説があり、弓削を東の武蔵塚と呼ばれ、当地は西の武蔵塚と呼ばれています。
◆島田美術館(島崎)
武蔵関係の資料(水墨画、書画、彫刻などの工芸品)を所蔵、常時展示。
宮本武蔵像、枯木鳴鵙図など観賞できます。火曜日休館 入館料700円
◆宮本武蔵使用の井戸跡(千葉城跡)(現在立入できません)
熊本藩主細川忠利は寛永17年(1640)8月、武蔵の待遇を「御客分」とし、城内千葉城に屋敷を与え、忠利自身を含め藩士へも兵法指南を依頼しました。後に武蔵の直弟子が熊本藩での武蔵流の隆盛を記す。《武公(武蔵)肥後にての門弟、太守(藩主)はじめ(家老の)長岡式部寄之・沢村宇右衛門友好(沢村大学の養子)その他、御家中・御側・外様及び陪審・軽士に至り千余人なり》と。 武蔵の直弟子生前の言葉を取材した『武公伝』によれば、《居宅ハ千葉城ノ高キ所也》とされており、元NHK熊本放送局があった千葉城でも高い位置、この井戸跡あたりだったとされています。
◆泰勝寺跡(黒髪・立田自然公園内)
正保2年(1645年)5月19日、武蔵は千葉城の屋敷で64年の生涯を閉じました。武蔵が亡くなると、細川家菩提寺・泰勝寺で武蔵知己の高僧・大淵和尚が導師となり、藩主光尚名代が香典を供え焼香するという格式高い法事となりました。墓は弓削の地に建てられ、葬儀地・泰勝寺にも供養塔が建てられました。
泰勝寺の始まりは、細川家の始祖廟として建立されたものです。近世細川家初代藤孝夫妻と2代忠興と妻ガラシャの墓「四つ御廟」をはじめ、第10代斉茲以下の藩主の墓と園内には杉木立に囲まれた「苔園」、また武人でありながら千利休の七賢人のひとり、茶道にかけては国内随一といわれた細川忠興公の原図に基づき復元された茶室「仰松軒(こうしょうけん)」などがあります。緑に囲まれたこの公園は、市民の憩いの場として親しまれています。 立田自然公園入場料200円
◆武蔵供養塔(泰勝寺跡境内内)
◆引導石(泰勝寺参道)
豊後街道から寺跡までの参道には、宮本武蔵にまつわる「引導石」があります。
標柱に「武蔵の棺はいったん参道の石の上に置かれ、春山和尚が成仏するよう引導を渡すと、にわかに雷鳴が鳴り渡ったと伝えられています。以来、この石は引導石と呼ばれるようになりました。」とありますが、当時の泰勝寺の往持は大淵玄弘(だいえんげんこう)で葬儀の導師を務め、ここで引導を渡しました。春山は大淵の弟子でまだ25歳の修行僧でした。春山は後に2代住職となります。泰勝寺跡に2人の墓があります。
◆武蔵塚(武蔵塚公園内)(東の武蔵塚)(弓削)
「細川公参勤の節には御行列を地下にて拝し、御武運を護らん」(細川公の参勤交代をかげから拝し、護りたい)という武蔵の遺言に従って、甲冑を着け太刀を持った姿で埋葬されたと伝えられます。墓石には「兵法天下一 新免武蔵居士石塔」「新免武蔵居士石塔」と刻まれています。現在、武蔵塚は武蔵の銅像が建つ「武蔵塚公園」として整備されています。
◆武蔵像(武蔵塚公園内)
二天一流「右直の構え」の銅像
  • 交通手段
    霊巌洞は金峰山山麓にあり、バス便数が少なくタクシーが便利です。ご希望によりタクシーを手配します。普通車は定員4名、特大車は9名です。うちガイドが1名乗車します。
  • 開催日
    年末年始を除く毎日。但し島田美術館は火曜日休館
  • 所要時間
    Aコース 霊巌洞、西の武蔵塚及び島田美術館は約3時間
    Bコース、全てをまわる場合約5~6時間(昼食含む)
  • その他
    コース、所要時間、交通手段、経費等についてはご相談ください。
ガイドの申し込み・お問い合わせ
電話 096-356-2333
※受付時間 平日9時~17時、土日祝9時~16時